ニューヨーク、JFK空港へ向かう深夜便。
ビジネスクラスのフルフラットシートに身を横たえながら、私は分厚いデューデリジェンスのレポートから顔を上げた。窓の外には、漆黒の闇と星々の海が広がっている。
今回のM&A案件は、ここ数年で最もタフなプロジェクトだった。何十人ものプロフェッショナルを率い、膨大なデータを分析し、クライアントの期待を遥かに超えるROI(投資収益率)を叩き出す。それが、外資系戦略コンサルタント、神崎美月(26)の日常。ハーバードで叩き込まれた論理的思考と冷静な判断力だけが、私の鎧であり、武器だった。
けれど、そんな鎧を脱ぎ捨てたくなる夜もある。理性のタガを外し、内に秘めた雌としての本能を解放したいという、抗いがたい衝動。
「…少し、休憩が必要ね」
誰に言うでもなく呟き、私はシートから静かに立ち上がった。向かう先は、機体中央に位置する化粧室。その密室空間が、今夜の私のための、ささやかな実験室(ラボラトリー)となる。
カチリ、と内側からロックをかける音。外界から完全に遮断された空間で、私は鏡に映る自分と向き合った。完璧にセットされた髪、一分の隙もないメイク。しかし、その瞳の奥には、飢えた獣のような光が宿っているのを、私自身は知っている。
バッグから取り出したのは、掌に収まるほど小さな、シルクのような質感のローター。最新のブラシレスDCモーターを搭載したこの子は、ほとんど作動音を立てずに、驚くほど複雑で微細な振動を生み出すことができる 。まるで、この日のためにあつらえたような、共犯者。
今回の実験テーマは、冒頭の問い。
「物理的接触なしに、オーガズムは可能か?」
痴女的な妄想に耽る女性が、誰にも触れられていないのに恍惚の表情を浮かべる…。あの現象は、単なる演技なのだろうか。それとも、私たちの脳には、現実の刺激を凌駕するほどの快感を自律的に生成する、驚くべき機能が備わっているのだろうか。
私の仮説は、後者。そして今夜、この高度一万メートルの密室で、自らの身体を被験体として、その仮説を検証するのだ。
シルクのブラウスのボタンに、ゆっくりと指をかける。一つ、また一つと外していくたびに、冷たい機内の空気が素肌に触れ、背筋がぞくぞくと粟立った。そして、レースのブラジャーから解き放たれた私の乳房が、ささやかな照明の下でその姿を現す。
まずは、準備運動から。
ローターの電源は入れず、その冷たい先端で、乳輪をなぞるように、円を描く。ひやりとした感触に、乳頭がキュッと硬く尖るのがわかった。
(…いい反応ね。まずは末梢からのボトムアップ信号で、脳の準備を整えるフェーズよ)
私は静かにローターのスイッチを入れた。ブゥン、という蜂の羽音よりも小さな振動が、私の指先に伝わる。最も弱い、リズミカルなパルスモード。それを、直接乳首に当てるのではない。あえて、ブラジャーのカップの内側から、布越しに押し当てた。
「んっ…!」
思わず、吐息が漏れた。
間接的な、もどかしいほどの刺激。しかし、その微細な振動は、確実に私の乳首にある神経終末を揺さぶり、快感の信号となって脳へと駆け上がっていく。
ここで、重要な科学的知見を思い出す。
私たちのラボに提出されたレポートによれば、乳首への刺激は、脳の感覚野において、陰核(クリトリス)や膣への刺激と全く同じ領域、すなわち「性器感覚野」を活性化させるという驚くべき事実が、fMRI研究によって証明されているのだ 。
つまり、今、私の脳は「乳首が刺激されている」のではなく、「性器が直接愛撫されている」のと、ほとんど同じように感じているはずなのだ。これは、単なる比喩ではない。神経解剖学的な、厳然たる事実。
(なるほど…だからこんなに、下腹部の奥が疼くのかしら…)
ローターを持つ指に、少し力を込める。振動の周波数を、一段階だけ上げた。布越しに伝わる振動が、より鮮明な輪郭を持って、乳首の先端に集中する。
「ふ…ぅ…あっ…」
そして、ここからが実験の第二段階。
「トップダウン処理」の誘発。脳を究極の性器として機能させるための、最も重要なプロセスだ。
私は目を閉じ、深く、ゆっくりと呼吸をしながら、強烈なイメージを頭の中に描いた。
(この化粧室のドアには、マジックミラーが嵌め込まれているとしたら?)
(外の通路からは、私のこの痴態が、すべて丸見えだとしたら?)
(ギャレーで談笑している客室乗務員たちも、何食わぬ顔で私を見ているのかもしれない)
(ううん、違う。彼らだけじゃない。さっきまで隣でレポートを読んでいた、あのエリート然としたビジネスマンも…私の席のモニターに、この化粧室の映像が映し出されていたとしたら…?)
あり得ない妄想。しかし、その妄想こそが、最強の媚薬となる。
ローターの振動という物理的な刺激(ボトムアップ)に、「見られている」という強烈な心理的刺激(トップダウン)が加わった瞬間、私の身体の中で、何かが劇的に変化した。
脳が、騙され始めたのだ。いや、自ら、より興奮する方へと、現実を書き換え始めた、と言うべきか。
私たちの脳と身体は、「興奮の自己強化フィードバックループ」というシステムで繋がっている 3。
まず、性的ファンタジーという思考が、脳から自律神経系へ微弱な指令を送り、心拍数の上昇や膣の潤滑といった、ごく僅かな身体的変化を引き起こす 4。
次に、脳の島皮質という部分が、その身体の変化を敏感に検知し、「ああ、私は興奮し始めている」という主観的な感情へと変換する 5。
そして、その感情が、元のファンタジーをさらに強め、脳はより強力な指令を身体に送る…。
このループが、今、私の身体の中で、暴走とも言えるほどの速度で回り始めていた。
「はぁ…っ、はぁ…っ、あ…見てる…みんな、見てる…っ」
もはや、妄想ではない。本当に、誰かの視線が私の肌を撫で回しているかのような、確かな感覚。ローターの振動が、誰かの指先や舌の動きに感じられてくる。
膣の奥からは、もう止めどなく愛液が溢れ出し、太ももを伝っていくのがわかった。クリトリスには一切触れていない。それなのに、陰部神経が支配するその領域は、直接いじられているかのように熱く脈打ち、腫れあがっている 。
「あっ…あぁっ…!もう、だめ…っ!」
クライマックスが近いことを悟り、私はローターのパターンを、予測不能な動きをするランダムモードに切り替えた 。神経が刺激に慣れる「順応」を防ぎ、脳を快感の淵へと突き落とすための、最後の一押しだ 。
強弱をつけながら、乳首を弄ぶ不規則な振動。
そして、最高潮に達した「見られている」という背徳的な興奮。
その二つが重なり合った瞬間、私の脳の、理性を司る外側眼窩前頭皮質の活動が、完全にシャットダウンした 99。思考が停止し、羞恥心も、恐怖も、すべてが快感という名の奔流に飲み込まれていく。
「い…ぃくぅぅぅーーーーーーっっ!!」
身体が、ビクンッ!と大きく弓なりに反る。
クリトリスも、膣も、直接的には何一つ刺激されていない。ただ、ローターで乳首を撫でられていただけ。それなのに、膣の奥深くから、子宮そのものが鷲掴みにされるような、強烈な痙攣が突き上げてきた。一度、二度、三度…収縮と弛緩を繰り返し、全身の力が抜けていく。
それは、紛れもなくオーガズムだった。
ぜぇ、ぜぇ、と荒い呼吸を繰り返しながら、私は壁に身体を預けた。鏡の中の私は、頬を紅潮させ、瞳は潤み、口元には唾液の糸が光っている。完璧なコンサルタントの仮面は剥がれ落ち、そこには一匹の雌の姿しかなかった。
私は、この驚くべき体験の科学的な裏付けを、ぼんやりとした頭で反芻していた。
今日のこのオーガズムは、まさに脳が司令塔となる「トップダウン処理」の究極的な証明なのだ 。
強烈な心理的刺激が、末梢からの感覚入力を待つことなく、脳の性的制御中枢を直接活性化させた 11。そして、物理的に誘発された場合と全く同じ生理反応…膣の潤滑、骨盤底筋の収縮、そしてオーガズムを引き起こした 。
さらに言えば、このオーガズムが単なる主観的な感覚ではない、客観的な証拠すら存在する。あるケーススタディでは、想像のみでオーガズムに達した女性の血中プロラクチン濃度(オーガズムの客観的な生物学的マーカー)が、性器刺激によるオーガズムの後と同様に、有意に上昇したことが報告されているのだ 13。
つまり、今、私の体内で放出されたオキシトシンやドーパミン 14、そして上昇したであろうプロラクチン濃度は、これが紛れもない「本物」の生理学的イベントであったことを、何よりも雄弁に物語っている。
そう、私たちの身体で最も強力な性器は、クリトリスでもGスポットでもない。
究極の性器は、脳なのだ。
物理的な接触は、あくまでその引き金の一つに過ぎない。あなたの問いへの最終的な答えは、ここにある。女性は、見られているだけでオーガズムに達することができる。なぜなら、その視線が、脳という最高の性器を、最も効果的にハッキングする鍵となるからだ。
私は乱れた衣服を整え、何事もなかったかのように冷静な表情を取り戻すと、化粧室のドアを開けた。
通路には、誰の姿もない。
当たり前だ。すべては、私の脳が創り出した、最高のプレジャーだったのだから。
自席に戻ると、隣のビジネスマンが、いぶかしむような視線を一瞬だけ私に向けた。
(…もしかして、気づかれた?私の声が、漏れていた?)
その考えが頭をよぎった瞬間、オーガズムの熱が冷めやらぬ身体の芯が、再び、じわりと疼き始めたのを、私は感じていた。

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