【美月の秘密の日記】鏡の中の「誰か」に、私はすべてを暴かれた夜

2025年9月29日 (月) 曇り

神崎の日記

地方都市の夜は、東京のそれとは違う種類の静寂を纏っている。今日のクライアントとの交渉は、ここ数ヶ月のプロジェクトの中でも特にタフなものだった。最後の最後、相手の役員の表情が和らぎ、握手のために差し出された分厚い手を見た瞬間、全身を包んでいた見えない鎧が、音を立てて崩れ落ちるのを感じたわ。

スイートルームの窓から広がる夜景は、まるで黒いベルベットに散りばめられたダイヤモンドのよう。けれど、その輝きはどこか遠く、私一人のこの部屋の静けさを、より一層際立たせるだけ。完璧なプレゼンテーション。完璧なクロージング。それが神崎美月のKPI。でも、その評価指標を満たした代償に、私の心は今、さざ波一つ立たない凪の状態…いいえ、これは凪なんかじゃない。ただの空虚だわ。

ふと、壁一枚を隔てた隣室から、くすくす、と楽しげな女性の忍び笑いが聞こえてきた。続いて、それを宥めるような低い男性の声。…幸せの、お裾分けかしら。皮肉なものね。一日中、理性の仮面を被って戦い抜いた私へのご褒美が、こんなにも生々しい孤独の再認識だなんて。

バスルームへ向かい、熱いシャワーを浴びる。備え付けのバスローブは、肌の上を滑るような上質なシルク。蒸気で曇った大きな鏡の前に立つと、そこに映るのは、いつもの私であって、私ではない誰か。髪を滴る雫が、鎖骨の窪みに小さな水たまりを作っていく。

アメニティの小瓶を手に取った。ネロリとジャスミンの、甘く、少しだけ官能的な香りがするボディローション。それを手のひらに広げ、まずは、すうっと、自らの首筋をなぞってみる。

ひんやりとした感触と、すぐに肌に馴染んでいく熱。…もし、今、この鏡の向こうに、誰かがいたら。この街のどこかにいる、私の名前も、経歴も、何も知らない一人の男性が、この姿を見ていたら。彼は、どこに視線を注ぐのかしら。

鏡の中の「私」から、知らない男の視線が注がれる。それはまず、濡れた髪の生え際に。次に、バスローブの合わせ目から覗く、胸の谷間へ。…やめて。そんな、値踏みするような目で見ないで。

でも、思考とは裏腹に、私の指先は彼の視線を追うように、自らの肌の上を滑っていく。ローションの滑らかなテクスチャーが、まるで彼の指そのものであるかのような錯覚。デコルテから、まぁるい胸の膨らみへ。指が触れるたびに、肌が小さく粟立ち、鏡の中の私の瞳が、潤んで熱を帯びていくのがわかる。

隣の部屋の気配は、もう聞こえない。私の世界は、このバスルームと、鏡の中の架空の視線だけで完結している。

ああ…ダメ。彼の視線は、もっと大胆になっていく。お腹を通り過ぎ、脚の付け根の、一番柔らかな場所を探っている。普段、決して人には見せない、この場所の疼きを、まるで知っているかのように。私の指がそこに触れる寸前、吐息が漏れた。下着の中に、じわりと熱が広がるのがわかる。

「…っ、だれ…あなた…」

声にならない声が、唇からこぼれる。鏡に映る私は、頬を上気させ、理性の光を失った目で、恍惚と苦悶の入り混じった表情をしていた。知らない女。私が最も軽蔑するはずの、痴女の顔。

最高に、気持ちがいい。

どれくらいの時間が経ったのか。気がつけば、鏡の中の男の視線は消えていた。そこにいるのは、少しだけ気怠げな表情の、神崎美月という一人の女。

ローションの香りが、まだバスルームに甘く立ち込めている。これは、明日には消えてしまう、一夜限りの魔法。日常からの逸脱。旅先でだけ許される、もう一人の私の、ささやかな反乱。

窓の外の夜景は、先ほどと何も変わらない。けれど、私の心には、確かに小さな熱が灯っていた。この熱だけが、今夜、私が「私」であったことの、唯一の証明なのよね。

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この記事を書いた人

はじめまして、美月です。昼間は丸の内で働くコンサルタント。夜は、誰にも言えない秘密のレビューを、この場所だけで綴っています。あなたと、特別な時間を共有できたら嬉しいな。

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