
午前一時の反論メモ
午前一時二十分。
三十八階のフロアで、灯っているのは私のデスクライトだけだった。空調の低い唸りと、キーボードを叩く音。窓の外の夜景は、室内の光に負けて黒い鏡になっている。
画面には、相手方代理人が昨日の夕方六時を過ぎてから送りつけてきた書面が開いている。明朝十時の和解協議の、わずか十六時間前。読ませる時間を与えないための提出だ。
論点は一つ。依頼人の不動産デベロッパーが買った工場跡地から、売買のあとでフッ素が出た。相手方は、売主に瑕疵担保責任があると主張している。契約の締結は二〇一九年。改正前の民法が適用される案件だ。
相手方は、平成二十二年六月一日の最高裁判決を引いていた。
あの判決は、瑕疵があるかどうかを「契約を結んだ当時の取引観念」で判断した。フッ素が規制される前に結ばれた契約なら、後から規制ができても、それだけでは瑕疵にならない。相手方は結論だけを切り取り、判断の物差しを読み落としている。いや、読み落としたふりをしている。
本件の契約書の第四条には、土壌について売主が責任を負う範囲が、当時の法令の基準で限定されている。判決の物差しと契約の文言。二つを重ねれば、相手方の主張は根元から立たない。
指が速くなる。前提を確認し、定義を限定し、証拠と結びつける。相手方の論理を、一枚ずつ剥がしていく。
最後の一文を打ち、保存した。
午前一時四十八分。完璧だった。
完璧な書面を書き上げた瞬間、私の中では、いつも同じことが起きる。
頭の芯が、すっと冷える。そのすぐ下で、別の場所が、ゆっくりと温まりはじめる。
脚のあいだが、重くなる。
勝った、と頭が判断するより先に、体のほうが知っている。その順番に、私は十年、気づかないふりをしてきた。
拍手のない部屋
完璧な仕事を終えたあとには、いつも短い空白がある。
法廷なら、相手方代理人の沈黙がある。会議室なら、依頼人の息を呑む音がある。一ノ瀬先生なら、書面から目を上げて、ほんの一言「よく見つけたね」と言う。
今夜は、何もない。
スマートフォンが一度だけ震えた。隆からだった。
――先に寝てるね。無理しないで。
優しい文面だった。けれど、彼はこのメモの中身を知らない。最高裁の物差しを、相手方がどう読み違えたのかも知らない。知らないまま、私を労っている。
(現在の情報共有は、評価に必要な水準に達していない)
頭の中で、そう言い換えた。言い換えてから、それが「寂しい」という意味だと気づいて、少しだけ不愉快になった。
私は感情を、感情のまま置いておけない。論点に変えなければ、手に持てない。
私が欲しいのは、労いではなかった。
誰かに、読まれたかった。この書面の、どの一行で相手が崩れるのか。それを見抜いた瞬間の、私の顔を。
いや。
本当に読ませたいのは、頭ではなかった。
頭が勝った瞬間に、勝手に濡れはじめる、この体のほうだった。
その考えを、いつものように、どこかへしまおうとした。
今夜は、しまう場所が見つからなかった。

黒い鏡の中の観客
視線を上げると、窓ガラスに私が映っていた。
漆黒のストレートの髪。切れ長の目。チャコールグレーのロロ・ピアーナのタイトスーツ。純白のシルクのブラウスは、胸の厚みに引かれて、ボタンのあいだに細い緊張を走らせている。第二ボタンと第三ボタンのあいだに、紙一枚ぶんの隙間が開いて、その奥に黒いレースの縁が覗いていた。
会議室に入った瞬間に、相手の視線が一度だけ、そこに落ちる。交渉の途中で脚を組み替えると、向かいの男の言葉が半拍遅れる。私はそういう瞬間を全部数えている。数えて、勝ちの一部に入れている。
今夜の勝ちには、その数が一つもない。
(観測者のいない勝利は、勝利として記録されない)
馬鹿げた命題だ。なのに、反論が浮かばない。
弁護士の頭が、勝手に反対尋問を始めた。
――証人に、うかがいます。あなたは、男の視線を数えていると言いましたね。
はい。
――それは、交渉を有利に進めるための観察ですか。
……はい。
――では、なぜ今、誰もいない部屋で、その数が足りないと感じているのですか。
答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
私はジャケットを脱いで、椅子の背に掛けた。
それから、ガラスの女と目を合わせたまま、ブラウスの第二ボタンに指をかけた。
一つ、外した。
紙一枚の隙間が、指一本の幅になった。黒いレースが、白いシルクの奥から、はっきりと浮かんだ。
第三ボタン。
第四ボタン。
外すたびに、ガラスの女の胸元が開いていく。ラ・ペルラの黒いハーフカップ。繊細なレースが胸の下半分だけを支えて、上半分の白い膨らみは、何も覆われずに、ボタンを外すごとに少しずつ、冷えたフロアの空気にさらされていった。
自分の胸を、こんなふうに見たことはなかった。
毎朝の鏡で見るのは、服を着る前と、着たあとだけだ。その途中を、誰かに見せるつもりで、ゆっくりと見たことは、一度もなかった。
重たかった。
両手で下から持ち上げてみると、手のひらから溢れる重さが、そのまま指の間に沈んだ。レースの縁が、乳輪のすぐ下に食いこんでいる。薄い黒いレースの網目の向こうに、濃い薔薇色の輪が透けて、その中心の先端が、もう網目を内側から押し上げはじめていた。
ガラスの中の観客が、それを見ていた。
もちろん、それは、私の視線だ。分かっている。
分かっていて、呼吸が浅くなる。
明日の会議室
目を閉じた。
明朝十時。依頼人の会議室。楕円のテーブル。相手方の代理人と、依頼人の役員たちが並ぶ。
私はテーブルの端に立って、この反論メモを読み上げる。
平成二十二年の物差し。契約の第四条。一つずつ。
相手方の代理人の顔から、少しずつ血の気が引いていく。役員たちが身を乗り出す。
その全員の視線が、説明する私の唇に集まる。
――そこで、閉じた目の裏で、私はブラウスのボタンを外した。
会議室の真ん中で。説明を続けながら。
第二ボタン。第三ボタン。
男たちの言葉が止まる。相手方の代理人が、書類を取り落とす。役員の誰かが、喉を鳴らす。
私は説明を止めない。条文の番号を、一つも間違えずに読み上げながら、レースのカップを、自分の指で押し下げる。
「――――っ」
声が漏れた。
目を開けた。
ガラスの女が、唇を半分開いて、こちらを見ていた。
いつの間にか、私は唇を閉じて、舌を回していた。上顎の奥の、細かい畝を、舌先でゆっくりとなぞっていた。
会議で説明を終えたあと、席に戻って、考えごとをしているときの癖だった。誰にも気づかれたことはない。
なぞるたびに、脚のあいだが、同じ形にすぼまった。
上顎の畝を一本なぞると、下の奥の壁が一本、きゅっと締まる。舌先を右の頬の内側に押し当てると、腰が右に逃げる。
ずっと前から、そうだった。
中学生のころ、授業中に気づいた。誰にも言わなかった。言葉にしたことさえなかった。
今夜、初めて、自分でそれを見た。
ガラスの女の、閉じた唇の奥で舌が動くたびに、タイトスカートの中で、太腿がかすかに擦り合わされるのを。

デスクの下の背徳
レースのカップを、指で押し下げた。
胸が、重たく、こぼれ出た。
冷房の風が、剥き出しになった先端を撫でた。濃い薔薇色の輪の中心で、先端が、ガラス越しにも分かるほど、硬く、長く、尖って立ち上がった。
指先で、輪の縁をなぞった。
ぐるりと。
輪の縁に並んだ小さな粒を、一つずつ、爪の先で弾いた。弾くたびに、粒が一つずつ、鳥肌のように立ち上がっていく。
それから、先端を、親指と人差し指でつまんだ。
硬かった。
指の腹のあいだで転がすと、つままれた先端から、細い電流が胸の奥を抜けて、まっすぐ脚のあいだに落ちていった。
「……ん……っ」
(行為者と観測者が同一人物である場合、これは公然性を欠く。わいせつ物陳列には当たらない)
条文が勝手に浮かんで、勝手に私を無罪にする。無罪にされたことが、なぜか許可に聞こえた。
いつもなら、ここで止まれた。
止まる理由を、私はいくらでも並べられる。明朝十時の協議。睡眠時間。ここが事務所であること。夫が家で眠っていること。
並べた理由の一つ一つが、今夜は、止まる理由ではなく、続ける理由に聞こえた。
誰も見ていない。誰も来ない。誰も、知らない。
左手を、デスクの下へ下ろした。
タイトスカートの深いスリットから手を入れると、ストッキングの縁のレースと、ガーターの冷たい留め具に触れた。その上の素肌は、驚くほど熱かった。
太腿の内側を、付け根へ這い上がった。
指先が、そこに届く前に、もう分かった。
濡れていた。
ショーツの極細のクロッチが、内側から溢れたもので重くなり、私のそこの形に、べったりと張りついていた。指の腹で上からなぞると、薄い布越しに、ひだの合わせ目の窪みが、くっきりと指に伝わった。布の脇から、溢れきれなかったものが、太腿の付け根に細く滲み出していた。
少し脚を開いただけで、デスクの下から、匂いが立ち昇った。
冷房の効いたオフィスには似つかわしくない、熟れた果実を潰したような、甘くて少し酸っぱい、雌の匂い。
自分の匂いを、こんなにはっきり嗅いだのは、初めてだった。
(いつから)
答えは知っていた。最高裁の物差しを見つけた瞬間からだ。相手の前提が崩れる音を頭の中で聞いた瞬間から、身体はもう準備を始めていた。
二時間前から。
二時間ずっと、私は濡れたまま、条文を打っていた。
クロッチを、指で横にずらした。
布が剥がれる瞬間、ぬちゃり、と小さな音がして、布とひだのあいだに、透明な糸が何本も引いた。引いて、ぷつりと切れて、ひだの上に落ちた。
じかに、触れた。
ひだは、熱く、ぬめって、ふっくらと腫れていた。指先で左右に開くと、外側の淡い色の縁の内側から、もっと濃い、充血した紅色が覗いた。その奥の入口が、指先が触れる前から、ひくひくと小さく口を開けたり閉じたりしていた。
指先を、入口に当てた。
当てただけで、入口が、指先を吸った。
「――――っ」
自分の体が、自分の指を、欲しがって吸いこもうとしていた。
一本、沈めた。
中は、熱かった。指の腹に、細かいひだの一つ一つが絡みついて、奥へ奥へと送りこもうとする。指を止めても、中のほうが勝手に、ゆっくりと、波打つように締めつけてくる。
私は右手でマウスを握り、画面の書面をスクロールさせた。
上半身は、まだ書面を読む弁護士だった。下半身だけが、別の案件を処理していた。
その分裂が、ひどく甘かった。

窓の前へ
右手が、マウスから離れた。
立ち上がっていた。
椅子が、後ろへ転がった。
窓の前まで、三歩。ルブタンの踵が、厚い絨毯に沈んだ。
ガラスの女が、近づいてきた。開いたブラウス。押し下げられたレースのカップからこぼれた、二つの重たい胸。腰までたくし上げられたタイトスカート。横にずらされた黒いショーツと、その脇から光る、濡れたひだ。
ガラスの向こうには、夜景があった。
隣のビルの窓が、いくつか、まだ灯っていた。
(公然性)
頭の中で、言葉が一つ浮かんだ。
向かいのビルの、灯っている窓の向こうに、誰かがいるかもしれない。残業している誰かが、ふと顔を上げて、こちらを見るかもしれない。
三十八階の、真っ暗なフロアの中で、ただ一つ灯ったデスクライトの前に立つ、胸をはだけた女を。
その可能性を、頭は「危険」と判断した。
体は、別の判断をした。
脚のあいだから、また、とろりと溢れた。
私は、ガラスに、胸を押しつけた。
冷たかった。
ガラスの冷たさが、熱を持った膨らみを、下から上へ、平たく押しつぶした。尖った先端が、ガラスに当たって、つぶれて、横に逃げた。
「……ぁ……っ」
吐いた息が、ガラスを白く曇らせた。曇りの向こうで、夜景がにじんだ。
片手をガラスについて、もう片方の手を、また脚のあいだに戻した。
今度は、二本。
人差し指と中指を揃えて、沈めた。
一本のときとは違う、押し広げられる圧迫感。入口のひだが、二本の指の根元まで呑みこんで、きゅうっと締まった。
指を曲げた。
腹側の、少しざらついた場所を、指の腹で押した。
「――――っ、ん、……ぁ……っ!」
膝が、がくりと折れかけた。
ガラスについた手で、体を支えた。
動かした。
抜くたびに、ひだが指に吸いついて、外へめくれ出た。押し入れるたびに、内側へ巻きこまれた。くちゅ、くちゅ、と湿った音が、静まり返ったフロアに、思いのほか大きく響いた。
親指が、上の尖りに届いた。
包んでいる皮の上から、押しつぶした。
ガラスに押しつけた胸の先が、指の動きに合わせて、冷たいガラスの上を擦った。
上と下と、両方から。
ガラスの女が、目の前で、眉を寄せていた。唇を開いて、ガラスを息で曇らせながら、知らない顔で、私を見ていた。
あれが、私だ。
十年、鏡を見てきた。法廷に立つ前の化粧室で、依頼人に会う前のエレベーターで。あの鏡の中の女は、いつも隙がなかった。
今、ガラスの中にいる女を、私は知らなかった。
知らない女なのに、目を逸らせなかった。
(本件行為は……継続的かつ反復的に……)
条文で包もうとするたびに、包装紙のほうが破れていく。
(瑕疵……取引観念……当時の……)
契約を結んだ当時の物差しで判断する。今の私を、一時間前の私の物差しで測ったら、どう判定されるのだろう。
(瑕疵……ある……重大な……)
(……隠れた……)
単語が、単語でなくなっていく。それなのに頭のどこかで、もう一人の私が、冷たく判決文を起案していた。
(抗弁……理由が……ない……)
(……認める)
心の中でそう言い終えた瞬間、腰が、ガラスに叩きつけられるように前へ跳ねた。
声が出る、と思った瞬間、私はガラスから手を離し、人差し指の関節を唇に押し当てて、噛んだ。
内側が、指の骨が軋むほどの強さで、二本の指を締めつけた。締めつけて、ほどけて、また締めつけた。そのたびに、奥から熱いものが押し出されて、指の付け根を伝い、手首まで濡らし、絨毯の上に、ぽたり、ぽたりと落ちた。
(……終わった)
そう思った。終わったと、判断した。
それが、今夜の私の、最初の誤判だった。

署名の万年筆
膝から力が抜けて、私はガラスに額を預けた。
息を整えようとした。
整わなかった。
二本の指を抜いた中が、まだ、ひくひくと動いていた。空っぽになった入口が、何かを探すように、すぼまっては開いていた。
足りなかった。
自分の指では、足りなかった。
自分の指は、優しすぎた。私がやめてほしいと思うところで、やめてしまう指だった。
振り返ると、デスクの上に、万年筆があった。
モンブランの、黒い樹脂の軸。父が司法試験の合格祝いにくれたものだった。契約書にも、準備書面にも、和解調書にも、私はこの万年筆で署名してきた。
デスクに戻って、それを取った。
キャップを、閉めたまま。
丸い先端を、自分の唇に当てた。
冷たかった。樹脂の、つるりとした冷たさ。
――何を、しているの。
頭の中の、もう一人の私が言った。
答えなかった。
唇を開いて、キャップの先を、口に含んだ。舌で、上顎の奥の畝に押し当てた。
下が、きゅっと締まった。
空っぽの入口が、また、何かを欲しがってすぼまった。
キャップを、口から抜いた。
唾液で濡れて、デスクライトの光に光っていた。
それから、私は、デスクの上の書類を、片腕で押しのけた。
相手方の書面。判例のコピー。契約書の写し。付箋だらけの六法。
紙の束が、音を立てて、デスクの端へ滑った。
空いた天板に、膝をついた。
ルブタンを履いたまま。
マホガニーの天板が、膝の下で、ひやりと固かった。毎晩、私が肘をついて、準備書面を書いてきた天板だった。相手の論理を、一枚ずつ剥がしてきた場所だった。
両手をついた。
四つん這いになった。
それから、ゆっくりと、腰を高く持ち上げた。
窓のほうへ。
腰までたくし上げたタイトスカートが、背中へずり上がった。横にずらしたままの黒いショーツの紐が、尻のあいだに細く食いこんでいた。ガーターの留め具が、ストッキングの縁を引いて、太腿の裏に食いこんでいた。
私は、肩越しに、振り返った。
ガラスに、女の後ろ姿が映っていた。
デスクの上に這いつくばって、白い尻を、高く、夜景に向かって突き出した女。
自分の後ろ姿を、私は、生まれて初めて見た。
毎朝の鏡は、前しか映さない。法廷に立つ前の化粧室の鏡も。私はずっと、自分の前だけを整えて生きてきた。
後ろは、こんな形をしていたのか。
高く上げた尻の、二つの丸みのあいだで、黒い紐が細く食いこみ、その脇から、濡れたひだが、デスクライトの光を受けて、てらてらと光っていた。さっきまで二本の指が入っていた入口が、まだ、小さく口を開けていた。開いて、閉じて、また開いていた。
その上の、すぼまりまで、全部、見えていた。
ガラスの向こうの、夜景の中に。
向かいのビルの、灯った窓の前に。
顔のすぐ横では、モニターが光っていた。
反論メモ。平成二十二年の物差し。契約の第四条。
前提を確認し、定義を限定し、証拠と結びつけた、隙のない書面が、四つん這いになった私の頬の、十センチ横で、私を照らしていた。
「……っ」
濡れたキャップの先を、後ろ手に、脚のあいだへ回した。
ひだの上に、そっと当てた。
冷たさに、腰が跳ねた。
跳ねた尻が、ガラスの中で、揺れた。
入口に、押し当てた。
入口が、冷たい先端を、ためらうように一度押し返して、それから、吸いこんだ。
ゆっくりと、沈めた。
私は、振り返ったまま、ガラスを見ていた。
黒い樹脂の軸が、私の中に、沈んでいくのを。
ひだが、細い軸を咥えこんで、内側へ巻きこまれていくのを。
私の署名をしてきた、万年筆が。
指より冷たくて、指より硬くて、指より、ずっと奥まで、まっすぐに。
中の熱が、冷たい樹脂を、少しずつ温めていくのが分かった。
――あなたは、この万年筆で、何を、しているのですか。
頭の中の尋問は、もう、答えを求めていなかった。
後ろ手に、軸を握って、動かした。
引き抜くと、入口のひだが、つるりとした軸に吸いついて、外へ、めくれ出た。濃い紅色の内側が、軸と一緒に引き出されて、ガラスの中で、光った。沈めると、また内側へ、巻きこまれて消えた。
軸に、白く濁ったものが、まだらに絡みついていった。
引き抜くたびに、それが、糸を引いて、天板に落ちた。
相手方の書面の端に、落ちた。
もう片方の手を、腹の下から伸ばして、尖りを擦った。
顔を、天板に伏せた。
頬が、冷たいマホガニーに押しつけられた。開いたブラウスからこぼれた胸が、天板と体のあいだで、平たく押しつぶされた。尖った先端が、天板の上を、擦れた。
それでも、目は、ガラスから離せなかった。
天板に頬を押しつけたまま、横目で、ガラスの中の、高く上がった尻を見ていた。
万年筆を咥えこんで、ひくひくと震えている、そこを。
見られている。
私に。
向かいの窓の、誰かに。
明日の会議室の、男たちに。
「……っ、あ……ぁ……っ、いや……っ」
いや、と言っていた。
誰に言ったのか、分からなかった。
軸を、根元まで沈めた。
奥の壁に、丸い先端が、こつりと当たった。
その瞬間、下腹部の最も深い場所から、沸騰したような熱が爆発した。一度目の波が引ききらないうちに、その底から、もっと大きなものがせり上がってきた。理性という名のブレーカーが落ちて、視界が真っ白に飛んだ。
噛む指は、もうなかった。
「……っ、あ……ぁ、ああ……っ!」
声が出た。誰もいないフロアに、私の声だけが落ちた。
法廷で何百回も「異議あり」と言ってきたこの喉から、こんな声が出ることを、私は今夜まで知らなかった。
内側が、万年筆の軸を、根元から千切れるほどに絞り上げた。絞り上げるたびに、奥から熱いものが噴き出して、軸を伝い、握った指を濡らし、太腿の裏を伝って、天板の上に、相手方の書面の上に、ぱたぱたと落ちた。
高く上げた尻が、ガラスの中で、何度も、何度も、跳ねた。
(……異議……なし……)
それが、最後に浮かんだ法律の言葉だった。
判決
どれくらいそうしていたのか、わからない。
空調の唸りが、少しずつ耳に戻ってきた。
一、二、三。呼吸を数えた。数えられる。思考が、戻ってきた。
万年筆を、ゆっくりと抜いた。
抜ける瞬間、入口が名残惜しそうに吸いついて、ちゅぷ、と小さな音がした。
軸が、根元まで、濡れて光っていた。
私はそれを、ハンカチで、丁寧に拭った。キャップの先から、軸の付け根まで。
明日の朝、この万年筆で、和解調書に署名する。
デスクから、降りた。膝が震えて、椅子にすがるように、座った。
モニターでは、反論メモが、さっきと寸分たがわぬ姿で私を待っていた。前提を確認し、定義を限定し、証拠と結びつけた、隙のない書面。
その前で、私は何をしていたのだろう。
(行為者と観測者が同一人物である以上、本件に公然性はない。被害者もいない)
向かいのビルの、灯っていた窓を、私は見なかった。
(よって、本件は不問に付す)
自分で下した判決に、自分で小さく笑った。笑った唇が、まだ少し震えていた。
不問に付す。
そう判決したのに、胸の奥で、何かが納得していなかった。
怖かったのは、したことではなかった。
したことを、こんなにはっきり覚えていることだった。ガラスに押しつけた胸の冷たさ。万年筆のキャップの、上顎に当たった形。ガラスに映った、自分の後ろ姿。自分の声の、高さ。
全部、正確に、記録されていた。
記録が残るかぎり、この夜は、なかったことにはならない。
それでも。
ガラスの女は、ブラウスの前をはだけたまま、満ち足りた顔でこちらを見ていた。観客は、ようやく満足したらしい。
満足したのは、観客だけだろうか。
左手を、膝の上に置いた。指先が、まだ乾ききらずに、デスクライトの影の中で光っていた。
拭うことさえ、億劫だった。

午前二時三分の足音
だから、エレベーターホールの到着音に、私は気づかなかった。
厚い絨毯を踏む、規則正しい革靴の音にも。
もしこのとき、暗いフロアの入り口から私のデスクを見た者がいれば、奇妙な光景だっただろう。モニターには、明朝の協議で相手方を黙らせるはずの、隙のない反論メモ。その前に座っているのは、NIK法律事務所の最年少パートナー。ブラウスの前を開き、レースのカップからこぼれた胸を晒したまま、濡れた指を膝に置いて、窓ガラスの自分と見つめ合っている女。
押しのけられた書類の山と、相手方の書面の端に、乾ききらない染みが落ちていることも。
デスクの上の万年筆が、さっきより少しだけ、光っていることも。
足音は止まらなかった。
そして、その足音の主が、私の書面を最初に「読む」ことになる男だとは、このときの私はまだ知らなかった。
観客のいない夜は、これが最後になった。
冴島響也がNIK法律事務所に戻ってきたのは、午前二時三分のことだった。
(第1話 了)
