午前零時の鍵
深夜十一時、銀座。
依頼人との会食を終えた私は、紺のタイトスーツと十二センチのジミーチュウで、並木通りを南へ歩いていた。石畳を打つ踵の音は、一日じゅう理屈を組み続けた頭の、最後の名残りの音だ。
雑居ビルの五階に、看板のないバーがある。会員制で、十二時には店を閉める。そこのバーテンダーは、私の名前も職業も知らない。私も、彼の名前を知らない。知っているのは、三か月前にこのカウンターで交わした、一つの取り決めだけだ。
私が最後の客として残り、グラスを伏せたら、それが合図。彼は表の扉に鍵をかけ、裏の非常階段の扉を開ける。そこは五階から屋上へだけ続く、鍵のかかる階段で、上にも下にも誰も来ない。そして、私が「やめて」と言ったら、彼はその場で扉を開けて店に戻る。
その取り決めを作ったのは、私だ。
午前零時。最後の客が帰っていった。私は、グラスを伏せた。
裸足
非常階段の踊り場は、打ちっ放しのコンクリートだった。裸電球が一つ。壁の向こうから、過ぎていくタクシーの音が遠くに聞こえる。外の音はこちらに届くが、こちらの音は、厚い壁と鉄の扉に阻まれて、どこにも出ていかない。
彼は、扉に背をもたせて立っていた。白いシャツの袖を、肘までまくっている。彼の視線が、私の顔ではなく、足元に落ちた。
「……脱いでくれ、と言っていいか」
彼は、一度も私に命令したことがない。いつも、命令していいかを先に聞く。その留保の一拍が、私にはたまらなかった。
「……言って」
「脱いでくれ」
右足のアンクルストラップに、指をかける。小さな金具を外すと、踵から権威がするりと滑り落ちた。コンクリートに当たって、からん、と乾いた音がする。左足も。
薄いストッキング越しに、足の裏が、冷たくてざらついた床を踏んだ。
「……っ」
冷たい。それに、砂の粒が土踏まずに食い込む。さっきまで高級店の絨毯を踏んでいた足が、今、何が落ちているかも分からない床に立っている。
(本日の会食で、相手方の社長が「先生には隙がない」と言った、その足だ)
そう考えた瞬間、太腿の奥がじんと熱を持った。隙がない女が、自分でその隙を作りにここへ来ている。その矛盾が、私をいちばん濡らせる。
ザラリと、一歩だけ彼に近寄った。ストッキングに、小さな砂利が食い込む。もう伝線しているかもしれない。どうでもよかった。
引き裂かせる
「壁に、背中をつけていいか」
「……そうして」
彼の手のひらが、私の肩をそっと押した。背中が、冷たいコンクリートの壁に当たる。彼の指が、ジャケットのボタンのところで止まった。
「……外さないで」
彼の指が止まる。私はその手首をつかんで、ブラウスの合わせ目へ導いた。明日着るスーツは、事務所のロッカーにもう一着ある。そういう準備までしてここへ来た自分を、私は知っている。
「引き裂いて。乱暴に。……私の服を、あなたの手で」
彼は一瞬だけ、私の目を見た。本気かどうかを確かめる目だった。私は、目を逸らさなかった。
ビリッ、と。
ジャケットのボタンが弾け飛び、コンクリートの上で乾いた音を立てて跳ねた。続けて、ブラウスの絹が、合わせ目から一気に裂ける。高い生地の裂ける音が、踊り場の壁に跳ね返った。
(ああ……)
明日の朝も、依頼人の前で着るはずだった鎧。それが、私が頼んだとおりに、目の前の男の手で壊されていく。壊してと頼んだのは私なのに、壊される音を聞いた瞬間、体の奥がきゅっと縮んだ。
裂け目から、黒いレースが裸電球の光に晶される。冷たい空気が、汗ばんだ肌に触れた。
彼は触れなかった。ただ、見ていた。
「……触っていいわ。強くていい」
無骨な指が、レースの上から左の乳房を掴んだ。強い。強いと頼んだとおりに。柔らかい肉が、指のあいだで形を変える。その痛みの手前の強さが、先端を、レースを突き破りそうなほど硬く尖らせていく。
カップの中に、ざらついた指が入りこむ。そして、彼はそこに、口を寄せた。
「……っ、あ……」
舌の表面が、尖った先端をゆっくりと舐め上げる。それから、乳輪ごと唇で吸いつかれた。じゅ、と、生々しい音が踊り場に響く。ここは、音が外へ出ていかない。それを知っているのに、私は、自分の声を手の甲で塞いだ。
自分で選んだ場所
彼の手が、タイトスカートの裾で止まる。
「……下も、いいか」
「……いいわ。それと、口で」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
彼は、砂の落ちたコンクリートに、ためらいもせず膝をついた。スカートがたくし上げられ、ガーターの留め具の内側、ずっと熱を持っていたところに、外の空気が触れる。
シルクのパンティは、もう役を果たしていなかった。彼の指が、その縁にかかる。ずらそうとする動きだった。
「……ずらさないで。それも、破いて」
さっきより小さな声になっていた。服を裂かせたときは、命令だった。今のは、ほとんど懇願に近い。その違いを、自分の耳がいちばんよく聞き分けていた。
彼の両手が、腰の両側で細い布をつかむ。一拍だけ、指に力がこもるのが分かった。
ブチリ、と。
腰の紐が切れる音は、ジャケットのときよりずっと小さかった。その小ささが、かえって生々しい。破れた布が、濡れた肌からはがれて、太腿を伝って落ちていく。最後の一枚を失ったところに、踊り場の冷たい空気が直に触れた。
彼は、拾い上げたその布を、自分のシャツの胸ポケットにしまった。何も言わずに。
熱い息がかかる。それから、舌が。
下から上へ、一度。それから、いちばん敏感な尖りを探し当てて、猫が水を飲むように、小さく、執拗に。
「あ、っ、あ……っ」
腰が勝手に揺れ、彼の頭をそこへ押しつけていた。裸足のまま、冷たい壁と熱い舌に挟まれている。その上と下の温度差で、頭がくらくらする。
波が、すぐそこまで来ていた。そこで、彼は舌を離した。口元を光らせたまま、私を見上げる。
「……ここで、終わるか」
ただの確認ではなかった。続きを、私の口で言わせようとしている。それが分かっていて、私は乗った。
「……終わらない。立って。……入れて」
壁と、熱と
ベルトの金具が鳴る。彼が立ち上がり、私の腰を両手で支える。熱い先端が、濡れた入り口に押し当てられ、そこで、最後の一拍だけ止まった。
その一拍を、私は自分で終わらせた。腰を前へ出して。
「……っ……ああっ」
壁に縫いつけられるような重さだった。ざらついたコンクリートと、彼の熱い体に挟まれている。逃げ場はない。逃げ場のない場所を、自分で選んだ。
彼は、ゆっくりと引き、それから深く突いた。いちばん奥の、いちばん柔らかいところを、一度ずつ確かめるように。そのたびに、裸足の踵が砂を踏んで滑る。
「……もっと。強くていい。……壊していいわ」
そう言うと、彼の腰の速さが変わった。踊り場に、肉のぶつかる音と、私の声だけが響く。壁の向こうでは、まだタクシーが走っている。こちらのことは、誰も知らない。その安全な密室の中でだけ、私はこんなに壊れられる。
奥が、彼を求めるように、繰り返し締まる。
「……中に、出していいか」
低い声が、耳のすぐ近くで聞いた。こんなときまで、この人は聞くのだ。
「……出して。奥に」
ずくん、と、いちばん奥で熱いものが弾けた。その熱が引き金だった。背中を壁につけたまま、裸足のつま先が丸まり、体の核から頭のてっぺんまで、一本の光が駆け抜けた。
靴を拾う
気づくと、彼は私の靴を両方とも拾って、砂を払っていた。ハンカチで、丁寧に。
「……履かせてもいいか」
私は、一拍だけ考えるふりをした。
「……許可します」
十二センチの踵が、私の足に戻ってくる。伝線したストッキングのまま。明日の朝、新しいストッキングに履き替えるまで、この伝線は私だけが知っている証拠になる。
非常階段の扉が開く。並木通りに戻った私の踵は、いつもと同じ、理屈の音を立てていた。
この夜の続きを
昼の私と夜の私の物語は、連載『痴女弁護士・神崎美月』で続いています。新しい話のお知らせと、ここでしか読めない番外編は、メールマガジンでお届けします。








