金曜の夜。週の最後の準備書面を出し終えた安堵も束の間、私は、地下の「再現車両」の、いちばん奥のドアの前に立っていた。
会員制クラブの、終電の車両。この前の朝のラッシュとは違う、くたびれた蛍光灯と、窓に流れる夜の住宅街の映像。座席には、酔って眠ったふりをしている会員が二人。そして、今夜の相手は一人だけ。

相手は、クラブから届いた候補の名簿から選んだ。顔写真はない。会則第一条。載っていたのは、手の写真だけだった。
十人分の手を、私は依頼人の資料を読むときと同じ目で見比べた。指の長さ。関節の太さ。爪の切り方。そして、いちばん無骨で、いちばん丁寧に爪を切りそろえた手を選んだ。
条件は、短く書いた。
一、言葉は交わさない。
二、私が後ろ手に、相手の袖を一度引いたら、次へ進んでいい。二度引いたら、止まる。
三、最後は、私のスカートの上に。拭くのは、私が自分でやる。
指だけの男
電車が揺れた。
背後から、生温かい圧がかかる。混雑のふりをした接触とは違う、はっきりと意志を持った熱。ジャケットの上から、胸の膨らみを確かめるように、無骨な指が這う。
顔は見ない。見ないと決めたのは、私だ。
指が止まる。待っている。
私は後ろ手に、男の袖を一度、引いた。
指が、ブラウスのボタンの隙間を探り当て、薄い布一枚を隔てて、ブラジャーのカップの縁をなぞりはじめる。息が詰まった。名前も顔も知らない手に、自分から次を許している。その事実だけで、下腹の奥が、きゅうっと疼いた。
もう一人の冷静な私が、頭の上からこの光景を見下ろしている。
(見なさい、神崎美月。今日、三つの法廷で一度も隙を見せなかった女が、袖を引くだけで、知らない指に身体を開いていく)
もう一度、袖を引く。
指は、乳房の丘をゆっくりと滑り降り、タイトスカートの裾から内側へ入ってくる。ひやりとした空気が、太腿の素肌を撫でた。今日の私は、パンストではない。ガーターで吊ったストッキング。そう選んだのも、私だ。侵入者のために、道を作っておいた。
袖を引く回数
指が、細いクロッチに辿り着いた。布の上から、その先端が裂け目の形を確かめるように、ゆっくりと往復をはじめる。
「……ん……ぅ」
唇を噛む。もう遅い。とっくに湿っていたそこが、指がなぞるたびに、くちゅ、くちゅ、と小さな音を立てはじめる。眠ったふりの二人にも、聞こえているかもしれない。聞こえていてほしい、と思った自分に驚いた。
袖を、一度。
クロッチが横へずらされ、指先が、ぬるりと直接粘膜に触れた。いちばん敏感な尖りを捉え、ねちっこくこすり上げる。それから、あふれたものを潤滑にして、一本の指が、狭い入り口へ。
電車が大きく揺れた。その揺れに合わせて、指は第二関節まで、私の内側に沈んだ。
二度引けば、止まる。分かっていて、私は袖を握ったまま、一度も引かなかった。
考えることを、やめた。この指に、もっとかき乱されたい。それだけになった。
背後で、男の身体が強張った。私が最初に書いた三つ目の条件を、彼は覚えていた。スカートの上に、どろりと生温かいものが広がっていく。
「……っ」
次の駅のアナウンス。ドアが開く。私は振り返らずに車両を降りた。降りる前に、バッグから白いハンカチを出して、スカートの汚れを、自分の手で拭き取った。
白いハンカチに残された、雄の匂い
事務所に戻り、何食わぬ顔で残りの書面を片付けた。あの車両でのことは、今夜の記録として、頭の奥にしまったつもりだった。
化粧直しのために個室に入り、バッグからハンカチを取り出すまでは。
ふわりと、鼻を突く匂い。むせ返るような、雄の生々しい匂い。

次の瞬間、あの車両が、身体の中に戻ってきた。無骨な指の感触。私の身体が立てた湿った音。袖を一度も引かなかった、自分の右手。そして、最後に広がった、あの熱。
「……はぁ……っ」
私は、そのハンカチを鼻先に寄せた。濃い匂いを、肺の奥まで吸い込む。頭の芯がじんと痺れて、もう一人の冷静な私が、どこかへ行ってしまった。
気づけば、タイトスカートの裾をたくし上げていた。左手にハンカチを握りしめ、右手はストッキングの留め具を越えて、薄い布の中へ。そこは、あの車両の中と同じか、それ以上に濡れていた。
ハンカチを、もう一度鼻に押し当てる。匂いを吸い込むたびに、あの男の指使いが、記憶の中でよみがえる。その記憶をなぞるように、自分の指で、硬くなった尖りを、ねちっこく、何度も。
「あ……ぁぅ……っ、ん……」
ブラウスのボタンを、二つ、三つと外す。シルクのレースのブラジャーさえ、今はもどかしい。カップを引き下げると、白い乳房がこぼれ出た。その先端が、きゅっと硬く尖って、指を待っている。
右手は濡れた裂け目をかき乱したまま、ハンカチを持った左手で、乳房を掴む。親指と人差し指で、硬くなった先端を、きつく、つまむ。
「んんっ……! ぁ、そこ……っ」
胸の先から下腹へ、熱い線が一本、まっすぐに走った。尖りをいじると先端がさらに硬くなり、先端をつまむと、入り口がきゅうっと締まる。匂いを吸い込み、先端をこね、尖りをえぐる。三つの違う刺激が、狭い個室の中で、私をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。

「あ、あぁ……っ、だめ、もう……匂いと、胸と……あそこ、も……っ」
指を二本、三本と沈め、奥をかき混ぜながら、先端を強くねじり上げた。ハンカチの匂いを最後に大きく吸い込んだ瞬間、今まで知らなかったほど深い波が、何度も身体を貫いた。
壁に背を預け、荒い息を繰り返しながら、私は手の中のハンカチを見つめていた。
顔も名前も知らない男の匂い。でも、その男を選んだのも、袖を引いたのも、引かなかったのも、全部、私だった。
この白い布に残った匂いは、私が今夜、自分で選んだことの、消せない証拠だった。
この背徳的な夜の続きを、貴方も目撃する…。
白いハンカチに染み付いた、あの夜の匂い。それは、私の中に眠っていた「本当の私」を目覚めさせる、甘く危険な鍵でした。
昼の私と夜の私の物語は、連載『痴女弁護士・神崎美月』で続いています。新しい話のお知らせと、ここでしか読めない番外編は、メールマガジンでお届けします。








