10月14日 火曜日 曇り
すべては、命令から始まった
公然性。
刑法百七十四条の公然わいせつ罪でいう「公然」とは、不特定または多数の人が認識できる状態のことをいう。実際に誰かが見たかどうかは問わない。見られうる状態に置いた時点で、罪は成り立つ。
今日の私は、一日じゅう、その言葉の上を歩いているようだった。
午前九時、依頼人との打ち合わせ。午後は、相手方代理人との和解協議。どちらでも、私は隙を見せなかった。条文と判例を一つずつ積み上げ、相手の主張の前提を崩す。
「さすがです、神崎先生」
依頼人のその一言で、張りつめていた空気が緩む。私は静かに微笑み、小さく会釈するだけ。けれど、その仮面の下で、私の中の何かが軋んでいた。
極度の緊張は、内側に澱のように溜まっていく。そして夜になると、昼間の知性ではとうてい扱えない、黒く甘い熱に変わる。
退勤したのは二十二時過ぎ。ビルのエントランスを出て、冷たい夜風が頬を撫でた瞬間、スマートフォンが短く震えた。
『タカシ』
一月ほど前に、アプリで出会った男の名前。顔も、職業も、平凡。けれど、彼だけが、私のいちばん深いところにある鍵穴を見つけた。
『今、どこ?』
事務所を出たところだと伝える。すぐに返信が来た。
『これから、僕の言うとおりにできる?』
『はい』
二文字を打つ指が、興奮で震えていた。
『会社の近くに公園があるだろう。今からそこへ行け』
私は、そこで初めて、指を止めた。
公園は、駄目
『公園は駄目』
そう打ってから、少しだけ迷って、続けた。
『あそこは、夜でも人が通る。誰かに見られうる場所で脱げば、それは公然わいせつ。私は弁護士よ。自分の楽しみのために、何も知らない人を巻き込んで、罪を犯すつもりはないわ』
既読がついて、しばらく返事がなかった。呆れられたかもしれない。そう思ったとき、画面が光った。
『じゃあ、どこならいい?』
私は、自分の部屋を思い浮かべた。タワーマンションの最上階。専用のルーフバルコニー。高い壁に囲まれ、どの建物からも覗けない。見えるのは、空と、遠くのビルの灯りだけ。
『私の部屋の、ルーフバルコニー。誰からも見えない。でも、外にいるように感じられる場所』
『いいね。じゃあ、そこで、僕の言うとおりにして』
『はい』
二度目の「はい」は、一度目よりも、ずっと深く、下腹に響いた。
夜のバルコニー
部屋に帰り、コートを脱がずに、そのままバルコニーへ出た。

夜風が冷たい。眼下には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景。そのどこからも、ここは見えない。それを、私はいちばんよく知っている。知っているのに、身体は、外に晒されている、と勝手に錯覚する。
ベンチに腰を下ろし、スマートフォンの画面を見つめる。数分が、永遠のように感じられた。
『最初の命令だ。コートのボタンを、全部開けなさい』
心臓が跳ねる。冷たいボタンに指をかける。一つ、また一つ。夜の冷気が、ブラウス越しに肌を刺す。けれど、内側は燃えるように熱い。
『次は、スカートのホックを外せ』
息が止まる。今夜の私は、彼の前回の命令どおり、ショーツを穿いていない。ストッキングをガーターで吊っているだけ。ホックを外せば、あとはファスナー一本。
(震えているわね、その指)
もう一人の私が、冷ややかに見下ろす。
(男の命令に従うだけの人形かしら? いいえ、違う。どこで脱ぐかを決めたのは、あなた。その場所に、あなたは自分から、この男を招いたのよ)
カチリ、と小さな音を立てて、ホックが外れた。腰のあたりが急に心もとなくなって、ぞくぞくと快感が背筋を駆け上がる。
証拠写真
『いい子だ。そのまま立ち上がって、スカートを下ろせ。そして、その証拠を見せろ。写真を撮って送るんだ』
ゆっくりと立ち上がる。ヒールの踵が、ウッドデッキを小さく鳴らす。ファスナーに手をかけ、ゆっくりと下ろしていく。ジ、という音が、夜の静けさの中で、やけに大きく響いた。
スカートが、すとんと足元に落ちる。夜の空気が、むき出しの太腿と、ガーターのレースに直接触れた。なんて無防備な姿。ここが、どこからも見えない場所でなかったら、私はこんな姿にはなれなかった。
冷たい空気が、いちばん恥ずかしいところを撫でていく。もう、濡れているのが分かる。糸を引いているかもしれない。
私は震える手でスマートフォンを構え、自分の下半身に向けた。画面には、ストッキングに包まれた脚と、その間に晒された、私のすべて。恥ずかしくて目を逸らしたいのに、離せない。シャッターを切る。
送信して、既読がつくまでの数秒、心臓が張り裂けそうだった。
『最高だ、美月。本当にいい痴女だ』
膝から力が抜けた。その場にしゃがみ込みそうになるのを、必死にこらえる。
『最後の命令だ。その場で、自分で自分を慰めろ。僕が見ていると思って。声は出すなよ。代わりに、その蕩けた顔を撮って送れ』
私は、手すりに背を預けて、ゆっくりと腰を落とした。そして、右手の指を、自分の裂け目へと導いた。
指が、触れた。もう、ぐしょぐしょに濡れている。尖りに指先が触れただけで、びくん、と大きく跳ねた。声を出したら駄目。唇を強く噛む。
夜景のどこかから、彼が見ている。そんなはずはないのに、そう思うだけで、身体の奥から、熱い波がせり上がってくる。
指をゆっくりと上下に滑らせる。湿った音が、自分の耳にだけ聞こえる。
もう、駄目。いってしまう。その瞬間、私はインカメラを起動して、自分の顔を写した。
潤んで焦点の合わない目。紅潮した頬。半開きの唇。知らない女の顔だった。
シャッターを切った瞬間、身体が大きく弧を描いた。噛みしめた唇の隙間から、声にならない喘ぎが漏れる。熱いしびれが、下腹から全身へ広がっていく。
ベッドの上で
ベッドの上で、私はバルコニーでのことを反芻していた。思い出すだけで、身体の芯がまた疼きはじめる。
もう一度、あの熱が欲しい。
パジャマの中に手を入れる。指先が、まだ熱を持っているそこに触れる。頭に浮かんだのは、タカシではなかった。もっと得体の知れない、圧倒的な雄。夜景のどこにもいなかった、幻の視線。
その視線が、私の指を「彼の指」に変えていく。指がゆっくりと内側へ進むにつれ、それはもう指ではなくなった。硬く、熱く、脈打つ楔。それが、いちばん奥を、えぐってくる。
「あ……ぁっ……!」
幻の感覚と、現実の身体の反応が、頭の中で混じり合う。シーツが濡れるのも構わず、私は腰を振りつづけた。
貫かれている。知らない誰かに、全部を暴かれている。
その奔流の中で、意識が遠のいていった。
公然性なんて、とても退屈な言葉よね。
でも、その一線の内側でなら、私はどこまでも乱れられる。誰も巻き込まずに。誰にも見られずに。見られているかもしれない、と、震えながら。
この背徳的な夜の続きを、貴方も目撃する…。
昼の私と夜の私の物語は、連載『痴女弁護士・神崎美月』で続いています。新しい話のお知らせと、ここでしか読めない番外編は、メールマガジンでお届けします。








